2016年3月28日~29日
左足の痛みとは。与えられたものの中で最大の結果を残すしかないのが人生。
左足の痛みとは。与えられたものの中で最大の結果を残すしかないのが人生。
【バス移動についての私の見解】
昔の、特に今の世代のチャリダー達の憧れの対象になっている偉大なチャリダーというのは「轍をとぎらせない」というこだわりを持って旅をしていたため、今の世代にもその精神は受け継がれているわけです。
昔の、特に今の世代のチャリダー達の憧れの対象になっている偉大なチャリダーというのは「轍をとぎらせない」というこだわりを持って旅をしていたため、今の世代にもその精神は受け継がれているわけです。
私?そんなものありませんよ。治安が悪いだとか、走りにくそうなかったるい区間はバスで飛ばします。
例外はあって、宝石の道やアウストラル街道、南部パタゴニアは、あそこはチャリダーの目指すべきルートですから、かったるくたって走りたいという気持ちが勝るので、バスで飛ばすなどという選択肢は無い。
今回マウントアイザからテナントクリークまでバスで飛ばすわけですが、憧れも何も無い暑くてかったるい区間なので、罪悪感とかそういうのは全く無いです。
ただ、オーストラリアの総走行距離は気にしていたんです。オーストラリアを縦断・横断するのにかかる走行距離は3500kmが目安なので、ダーウィン到着時にこの走行距離を下回っていたら、縦断達成!なんて胸張って言えませんからね。
シドニーからマウントアイザまで走ってきて走行距離は3360km。厳密に言えばシドニーとキャンベラの往復があるので、キャンベラスタートとすると片道分300kmほどマイナスと見れるので、キャンベラからマウントアイザだと3060km走っています。
バスの到着地点のテナントクリークからゴールのダーウィンまで990kmなのでこれを加算すると、キャンベラからダーウィンまで4050kmということで悪くないでしょう。今回バス移動をしたとしても、縦断達成と言っても良いかと思います。
まぁ定義は人によって違うことが多いチャリダーの世界なので、一般論とした場合に何をもって縦断・横断達成とするかは何とも言えませんけどね。
出発は朝7時。自転車のちょっとしたバラシと荷物のまとめ作業があるので、キャンプ場を5時半に出ました。
日の出前の暗い中、バス乗り場に到着し、諸々の作業を終える頃には明るくなり始めました。
自転車と荷物を難なく載せられて、出発。7時間後にテナントクリーク到着。自転車を組み立ててキャラバンパークへ。本日終了。
【29日: テナントクリークにて】
寝袋は干しているのではなく、日陰を作るのに使っている。かぶせるだけでテント内はだいぶ涼しくなる |
今日出発するかどうか悩みどころでした。昨日28日はイースターのためにスーパーは閉まっていたので買い物ができなかった。今日はやっているので買い出ししてから出発すれば良い。でも気乗りしない。
左足が痛いんですよね。私の左足は先天性のもので、生まれつき普通の足とは少し違います。簡単に言えば、血管を押し込む筋肉がないので、足裏と甲が腫れています。加えて人差し指と中指が「出来損ない」なのです。胎内にいる時に、左足の人差し指と中指が母の骨か何かに押し当てられる感じになって成長が阻害されたとかいうことが原因みたいです。
改善のために子供の頃に手術を考えたそうですけど、血管と神経が複雑に入り組んでいて不可能だったらしい。手術しないほうが良いとの判断です。
歩く・走る・飛び跳ねるはできますので、形が変なだけで運動の機能は普通です。実際、小学生の頃短距離走の代表として大会に出場しました。なので障害ってほどではない。けども以下のように不便ではある。
この足の欠点は、ハードワーク後にパンパンに膨れて痛むということです。これは何度も経験しているのでパターンが分かっていて、ハードワークの緊張感がなくなってリラックスした翌朝に起こるのです。必ず朝に起こります。
痛みだすと歩くのが大変です。朝トイレに行くまでの10mが大変です。長い時間マッサージしてやると落ち着くし、無理やり膨張を押し込んでやるのもいい。例えばブーツを履くとか。履く時めっちゃ痛いんですけど無理やり履くんです。そうしてブーツに押し込んでやると次第に痛みが無くなる。
この痛みは緊張感が持続している限り起こることはないので、今日痛みだしたということは、取り敢えず山場のバス移動を終えてリラックスしたということでしょう。無理やり出発してもいいんですけど、様子見しようかなということで本日は休養としました。
気温は40℃に到達。日陰でジッとして、日が沈むのを待つ。
【障害はどうでもいいこと】
先天・後天だろうと大小の障害・不便を持っている人は悲観しても仕方のないことです。この世界というのはそういうものだからです。この宇宙は、人間がどうなろうと知ったこっちゃないのです。滅びようが地球が粉々になろうが、全く気にしない世界です。ただ淡々と、生まれては滅びるという輪廻の繰り返しが行われているだけです。非情ですがそういうものなのです。
先天・後天だろうと大小の障害・不便を持っている人は悲観しても仕方のないことです。この世界というのはそういうものだからです。この宇宙は、人間がどうなろうと知ったこっちゃないのです。滅びようが地球が粉々になろうが、全く気にしない世界です。ただ淡々と、生まれては滅びるという輪廻の繰り返しが行われているだけです。非情ですがそういうものなのです。
宇宙そのものに存在意義が無いのですから、その中で生まれてくるものにも何も無いのは当たり前のことです。(何らかの存在に目的を持って作られたわけではないから)
しかし人はこの世に生まれた人生の意義を求めます。何かあるだろうと。ところがそんなものはこの世界のどこに求めてもありません。だから自分自身で存在意義を作るしかない。
聖書の「神」という存在も人が設定したものです。人形を作れば名前を付けます。神というのもそれと同じです。何の理由もなく生まれてきたことに対する虚無感から、すがれる存在を作って神と名付けただけのことです。人のポジティブな存在意義への解釈 (この世界は神が創った。だからこの世のすべてのものは何らかの目的を持って作られている)や智慧を力のある存在、神に代弁させることで、本来何も無いものに存在意義を確立させて納得しているのです (神が言うのだからそうに違いない)。本来何も無いのにさもあるように思わせるわけですから神の言葉は幻と言えますが、それで納得して人生楽しくポジティブになりゃそれでいいんです。
したがって、障害を持っている人は自分自身でその障害に対する理由を作ることです。納得するために。自分自身に不安なら神仏に頼るのも良い。そのためにあるのですから利用したらいいのです。
障害を持つと健常者と比較して人生のスタートラインから一歩遅れたように思うことがあると思います。ただ、健常者・障害者、金持ち・貧乏、白人・黒人なんて、人は生まれてくるときに選べないのですから、結局与えられたものの中で最大の結果を残すしかないのは、境遇に関わりなく同じです。だから人生のスタートラインは皆同じ。あとは努力次第です。目指すところは幸せ。これがゴールです。
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